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相談に答えて


T君の相談
自分は行をやっているのですけれど、新しい仕事になって時間がとれず、今までのように滝にはいけないのです。
だから、瞑想に専念しようと思ってあせっています。
そんななかで自分が分裂しているようにも感じます。



佐藤先生の答え
佐藤 これは、ある程度、行の進んだ人にしか実感できないことですけれど、自分のなかに悪魔とでもいうか、おかしな奴が住んでいるのです。
困ったなあ、どうしようかなんて思ったりすると、「しょせん急いだからといって、間に合わない」なんて、急がせない自分が自分のなかにいるのです。
このままだと破滅かなんて思うと、「破滅してみるのもいいだろう」なんていう自分がいるのです。
分離しているような自分がわかります。現実にもどってきて、自分のな かにそういう感情があることがわかります。
佐藤 瞑想では、自分が分離しているように感じることがよくあります。
分離しても、自分の正体がちゃんとわかっていればいいのです。
分離したのは自分が作り上げた、心に描いた自分です。
でも、そちらの方が強い。
現実の方に力がなくて、生活も何も思うようにいかないと、現実の自分をないがしろにして理想的な自分ばかり、思い描いて、それに夢を託そうとしてしまいます。
分離できなければならないのですけれど、分離した意味も理解できれば間違いはないのです。
瞑想というのは、その過程で自分がふたりになったような思いをすることもあるのです。
悪くなるのを喜ぶ自分というのがいるのです。
佐藤 それは魔的なものです。
行をするためにはこの仕事はやめたほうがいいかなと思っても、生活のためにはなくてはならないと判断するのは理性です。
そうではなくて、駄目になってもかまわないというか、自分を破滅に追い込もうとするもうひとつの感情の世界があります。
それほどではないのですが、自分が失敗したのを自分のなかで喜んでいるみたいな自分を感じます。
佐藤 そう。感じることがあるでしょう。
それがでるときは、自分は気がおかしいのかと思います。
佐藤 それは箇条書きでもいいから、文章にでもいいから書いておいたらいい。
外にだしておけば、それは記憶として残るだけで悪さはしません。
いつまでも、しまっておくと何度でも悪さをします。
この世は顕現の世だから、だしておけばいいのです。
「ある」と自分で認識しておいて、いろんなパターンなり、思いなりをだしておけばいいのですね。
佐藤 それをいつまでも抱え込んでいると、それに尾ひれがつき、筋書きを作り、なおいっそう自分が堕ちていくのを、「だからいわぬことではない」と喜ぶような魔的な自分もいます。
でも、そういうふうになるのが本当なのです。分離していくのです。
だけど、分離していくのは、無意識の中だけであって、現実では記憶したり整理したりしておかなくては駄目なのです。
現実で整理して、瞑想にはいっていけばいいのです。
そうせずに、そのぐじゃぐじゃしたままではいっていくから、よかれと思ってやったのに、自分で自分をおとしめるような悪い結果になってしまうのです。
現実でどうしようもないようなるつぼのなかにはいっても、それを抜け出したときは、すかんとして、やっぱりそうか、これでよかったんだという歓喜とでもいうか、そういう感情がわいてくるのです。
あれさえもっていれば、わたしは大丈夫という思いがでてきます。
そういうとき、自分は神様に見放されていなかったのだ、助けてもらえたというような、言葉にすればそんな感激がでてくるのです。
普段は神様を忘れていてもいいのです。それが本当の宗教です。
本当に自分で体験して、どうしようもないところから這い上がったとき、ありがとうとつながるそれが本当の宗教だと思います。
現実というのは誰も代わってあげることができないから、自分でるつぼのなかからはいあがったとき、初めて本当のことがわかるのです。
人はみんなそれぞれ苦しみがあるのです。
けれども、無意識の中から自分の成長するのを眺める以外ないのです。
無意識の中から自分をみるのだけれど、そのとき、もうひとつの目ができてしまうのです。
その目は、何の目なのかと思います。
その目は自分を苦しめる、破滅させる目にもなります。
心のなかにマムシみたいなものがいるけれども、マムシの使い手も心のなかにいるのです。そんな心もあるのです。



T君からの便り
  こんにちは。
何度も読み返し、るつぼから抜ける事と言われる事が、本当に難しい事なのではないかと思っています。
少し長くなりますが、整理するために、書かせていただきます。
記憶と言うか、イメージとして残っているもの。

幼稚園の時、家族と近くのプールに行き、母親が、止めるのも聞かないで、休憩中に1人でプールに入り、足が滑って、角に後頭部を打ち三針ほど縫う怪我をしました。
その時に、タクシーで母親に抱きかかえられて運ばれる自分を見ている。
と言う記憶があります。
(佐藤先生談:これは幽体離脱ということではなく、そのような感覚を超感覚といいます。)

同じ幼稚園の頃、朝、幼稚園に行くのを嫌がって父親を怒らせてしまい、天井裏の納屋に縄にくくられ、尻を何度もたたかれた時、怖い気持ちと同時に、兄と同じ扱いをされて、喜んでいるような、気持ちがあった事。
(佐藤先生談:瞑想をすると最初に瞑想コンプレックスが出てくるといつも説明していますが、この話などはまさにそれです。同じ親の愛情をうけていても、兄弟を比較して、このように感じてしまうのです。)

14〜5年前、その時付き合っていた人が、原因のわからない病気で、1ヶ月ほどで亡くなった臨終の時、大泣きしている自分の中で「おお・おお、たいそうに泣いて」と言っている自分がいました。
その時は、なんで、こんな事を(一瞬おかしくなったのか)と思っただけで、でもじっと見ている、目を感じました。
(佐藤先生談:これはいいですね。)

最近では、絶対にこんな事を思うはずないと言う時に、死んでしまえと,中のほうで人を呪う自分。
行に行こうとした時に用事が入り、どうにかやりくりしても出来ず、しまったと思っている時に、何か自分の中でニヤニヤと、
「その程度なもんや」とでもいいたげに、見ている自分を感じました。
(佐藤先生談:誰の心のなかに自分の力をも否定するような自己がいます。)

いままでに、感じた時を、書いてみました。こう書いて見て、先生のアドバイスを、読み返してみると迷っていると言うか、整理出来ずそのままうろうろしているんだなと、思います。
今の仕事を始めて、何とか仕事は出来ていると、思っていたんですが、職場の人から見ると、まったくやる気の見えない仕事ぶりだった様でそうとう言われてしまった事が、ありました。
自分のやっている事が、どう周りに影響して、迷惑が掛かっているかも、わからず。
幼稚園の時に、遊園地で迷って、家族に心配を掛けた時の様でした。
今の状態は、こんな感じです。
長々と申し訳ありません。
また、そちらにうかがいます。


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