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| 先生 | 私の先生の道場がができた時、先生が喜んで「おい、座ろう」 なんてよくおっしゃった。 先生はご飯を食べておなかがふくれた方が、気分が楽だから、その後に座るのです。すると、おなかが鳴るのです。 先生はそんなことをしても座れるのですねと感心して、わたしは真面目に基本通りと思ってじっとしていた。 先生はからだからそっと抜けて、その世界にいらっしゃる。やっぱりもう道がついている。 それは、道彦といって、やっぱりつけてくれる、手伝ってくれるそういう人がいて、初めてできることです。 先生は何の技法もなければ、何もない。おなかをごにょごにょ鳴らせながら、意識はすうっと。 わたしも遅れまいと、先生はいっちゃったから、早くいかなければ、早くいかなければと思うと、とんでもない明るい所にいて、ああ、ここはきれいだな、どこだろう。先生はどこへいくのだろう。 先生の後をつけていこうと思うときは、自分の呼吸も、自分そのものが邪魔になる。 だから、呼吸も何もとめるようにして、気配だけをじっと感じながら、いくと、先生のおなかが鳴る。先生はよくそんなので、どこへいくのだろうなんて考えていると、大脳が動くから、視床下部への集中が外れてしまう。 あとは、真っ暗闇。 先生はどこへいっちゃったかな。いつも無意識のなかは膨大に広いというでしょう。 先生はどこにいっちゃったかな。どこにも見当たらなくなった。困ったなと思って、ネズミ色の所をあっちうろうろ、こっちうろうろ、どこにもいないから、いいやと思ってじっと座っていると、ぴゅーと先生が光のように。 ああ、帰っていらしたと思うと、自分の内なるものというか、真我というか、豆粒のように小さな自分が飛び上がって喜ぶ。 あら、だれかすごい勢いで喜んでいると思うと、うん、やめようかと先生の声が、頭の上の方でする。 そういうふうに、道彦というか、先達というか、その人の意識にのっかればこられる。 その時、みんなは無我夢中で自分のことしか考えられない状態で、自分がどうかなりたいと思っています。それは個人ということであって、そこからふっと抜ければ、カラを抜けたように、すうっとそれなりのコースにはいっていくのです。 そういう個人的な心を無くしてしまって、すっかりそのコースを自分のものにしてしまうこと。 自分が何かという、邪心めいたものがでてきた時は、それはなかなかでない。 なかなか、その世界は見えません。 共有できない。 本当に共有できるのは浅い世界であって、本当に神様につながるような、そういう所を共有するというのは、現実の所でも、先生の立場とか、そういうものは尊いとか、指導を受けるものにとっては、絶対と思えるものがいるのです。 その一時でいいから、絶対と思っていないとなかなかつながりません。 最初から普遍的な絶対を望んでも、ないことであって、その時、その時の瞬間、瞬間が絶対であればいいのです。 それを先生はその時、その時一生懸命やればいいんだと、そういう言葉になる。 そうすると、まるで目の前で見ているように見えるのです。 |
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