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 後ろめたさ

山の上で座っているとき、ちょっともの音がしただけで、飛び上がるほどびっくりしたのです。なんでこんなにびくびくするのかとふと思ったとき、まるで人でも殺したのではないかというほどの強烈な脅えのような、後ろめたさがでたんです」
先生 その時、心を寄せる人がいなかったならば、絶対その境地からなかなかあがれません。
そうなったとき、何でかなと、その中を見ようとしたとき、極限まで自分が、これ以上リラックスできないというほどの状態まで、自分を放下しないと、その根っこは見えないのです。
その時、先生が見ていてくれるとか、誰々さんに電話すれば、答えをくれるのではないかとか、一縷の望みみたいなものでもいいから、そういう人がいなかったらなかなかリラックスできないのです。
わたしはそれだけの務めだろうと思います。

わたしも自分は人を殺したのではないかと、錯覚するまでになったことがあります。
自分は落伍者じゃないかと思って、その恐怖を感じました。
そこの次元の所で、自分は落伍者じゃないかと思えば、日常生活のなかでは殻を堅くして生きていきます。
そのギャップを何度も、何度も繰り返していると、自分のなかで何か解決しなければならないと思えるようになります。そうすれば、それは日常生活のなかにもでてくるのです。
ふっと心の隅で、でてきた感情を押さえながら座っていると、いつもでてくる雑念がそれだったのか、そうだったのかと、自分のなかで納得がいくと、だんだんリラックスしてきます。
でも、そんな自分を考えなくても、そんな自分を見なくても生きていけるのだから、やめようかなと思うこともあります。すると、日常生活のなかで何か後ろめたさを感じるのです。
やっぱり行をしなくてはならないのではないかなと、後ろ髪をひかれるような思いをしながら、行をしていても、また、殻を被った自分にあいます。
この自分の正体というのは何だろう。
一体、どうしたらそれを消すことができるのだろうと行きつ、戻りつ悩みます。
それが何度か続いているうちに、自分のなかでなぞが解けてくるのです。

ある方がキリストだって、誰だって死んで行くという話をなさいました。
キリストは最初からパンを分けて与えられるような、そんな力のある人のようにわたしは思っていました。どういう生活をしていたとか、性格はどうであったろうとか、そんな人間的なことは考えたことはありませんでした。
人間が死んで神になる、仏になるということは、偉いことなのですけれど、この世で二度と会えなくなる、その悲しさ、苦しさはこの世にあるのだとおっしゃった。
どうして、そんなお話をなさるのか、それが行とどういう関係があるのかわかりませんでした。
でも、その方がいっしょに祭事をしていた相手の方が亡くなられて、一人で祭事をなさった後、帰り道、しゃがみこんで号泣なさった。
ああ、そうだったのか。
行をして悟っても、人間が死んだら、二度と話をすることができない、二度と会うことのできない悲しみというのは、そうだったのか。その方のお話はそうだったのかとわかりました。
だけど、心のなか、霊的な真価というものはそうではないのです。
意識とこの世というものを二重にその方はお話になっている。
どんなに悟っても、お金がなければ落ち込むし、暗くなるし、おなかがすけば、気がたってくる。それが肉体なのです。
だけど、ご飯を食べていようが、何であろうが、常時流れている意識そのものはやはり、だんだん深い所に上がっていくのです。
その自分の仏性を覗きたいならば、放下するしかないのです。自分の状態をなくしてしまう。
そして、初めてそのなかがのぞけるのです。
そのなかから出てくるものが、やはり人格という仮面をかぶったり、嘘ぶいている自分を後ろめたく感じたり、自分のそういう日常生活を事もなげにすましているのですけれど、実はいろいろなことがあるのだということを、自分の仏性は知っているのです。
そのためには、最高に信頼しあう人、死んでも仕方あるまいという心がでてこなければ、それはなかなかのぞくことはできません。
その不動心、その心がでるまでは。





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