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七難八苦を与えよ

先生 誰かに媒体となってもらわないと、なかなか流入なんかはできないのです。
自分のなかには、いちぬけたと早くあがりたいという気持ちが強いです。
先生 それはそれでいいのです。でも、現実のところでは厳然として、媒体と受ける側は別れているのです。
わたしだって、何もわかっていないと思っていても、教えてごらんといわれました。
ここには媒体になれる人がいないんだな。
なれる人がでてくるまで、わたしがやらなければならないんだと思ったからいただけです。
いちぬけたというのは、みんながそう思っています。
でも、滝壷のピンポン玉のように、抜け出せないのです。
そんなときは、素直にそれを認めて、もっと大きな視点からみなければ駄目なのです。
滝壷で右往左往する自分の姿ばかりを嘆いたって仕方がないのです。
そう、かわらないようにこの世はできているのです。
根底から変わるような見方というのが、あるのではないですか。
先生 それは、自分がすごい不幸に突き落とされたりしたら、根底から見方が変わってくるでしょう。
それは、勘弁してほしくなります。
先生 そういうふうに答えれば、自分を壊すことができなくなります。
それは勘弁してもらいたいという所で話を聞いていたのでは、わがままを出してはいけないですというくらいの言葉になってしまう。
自分が変わるためだったら、絶好の機会と思って、喜んで七難八苦を与えよという気になることなのでしょうけれど。
先生 (笑い)でも、それは楽しいものです。
この世のなかで責任を果たすだけの備えはしておかなければならないけれども。
その備えがあって、七難八苦。
これが自分のカルマなのだと超えていくのです。
どんなに悩んだことも、それはそれで解決していきます。
あれだけ悩んだ、わたしの六十年の人生は何だったのだろう。
それはカルマさと、一言で過ぎます。
自然の流れのままに生かされているものだ。
流れのままにそうやってかわっていくのです。 自分の努力で座ったからどうの、滝に入ったからどうの、それくらいで自分がころっと変われるなんて思っているのです。
みんなも自分が変わらないなんていっているけれども、変わるはずないのです。
変わるならば、わたしだって変わって楽になっています。
そうしながらやっているのです。
今になってみれば、留守の家に泥棒が入らないとか、火事にならないとか、そのくらいの願い、ささいなことだけを願ったに過ぎないのです。
後は、大きなことは生かされている流れのままです。
とめどなくながれていれば、大きな海原にでます。
集合無意識のなか、個人なんか消えてしまいます。
願いなんかけちな願いなんだから、何も考えられないように一瞬のうちに滝にはいって、自分をみつめる。
滞ることなく流れていく姿を客観的にみつめられればいいのです。
そのまま受け入れることが力ですから、その力がでればいいのですね。
先生 でも、生かされるまま生きていくのは大変なことなのです。
みんな、抵抗して何かになりたくているのです。流されるままに流れていくなんて、神の心に添ったことです。
そういうふうに自分が生まれついて、そうなっているのです。
神ながらの道を生きていく以外ないのです。




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