| Home | 瞑想対話集:目次 |
| 奈良にいった。先生を中心にして、藤原京の跡、法隆寺、談山神社などまわって歩いてきた。その夜、食事をしているとき、先生が皆をみて話す。 |
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| 先生 | 滝に入るとか、座るということだけが修行というのではないのです。 こうしているそのままが修行なのです。 高いお金をつかってきて、それが損だとか、高くつくとかと言わずに、こうして心を寄せることが修行なのです。 それが分析をしないということであり、欲からも離れたところで同調するというそれなのです。 日常生活のなかで、あの感情は二度と嫌だなとか、ああいうものをみるとこういう感情が起きるのだなということを自分でわかると、ほとんどそうしなくなるのです。 そうしたら、だんだん、いい会になっていきます。 屈折した心、ああでもないこうでもないという心が一番神様に届かないのです。 神様はストレートが一番いいのです。屈折して別にはしるときは、そこに何かがあるのです。 ある神社にいったとき、「頼むならば親神にたのみなさい」という言葉をいただいた。魂の親ということでしょう。魂にも親がいるものかなとその時に思いました。 今の時代でいったら、遺伝子が同じというか、DNAが同じ、情報が同じだから一緒になるということです。 そして、それを知るためには、わたしはものを考えるときには、自分の先生のことしか対象をおかないのです。そして、自分の心。 随分前ですけれど、魂には系統があるのではないかなと思って考えている頃、先生とわたしは同じ魂の系統ではないのではないかなと思った。 では、どこで縁があったのだろう。 ある時、先生はインド、随分、北のほうだななんておっしゃる。白いうちで、青い屋根、塀のようなものに囲まれてなかに庭があるような家がみえてきました。 そうしたら,先生が「それは随分北にあるのだよ」とおっしゃる。 何故、先生のみているものがわたしにもわかるんだろうと思った。 そういうふうに、対象をかえては駄目なのです。それもひとつの集中なのです。 みんなが何かを考えるときは、あっちを考え、こっちを考えしているのです。自分を分析して、あの人は苦手だ、この人はどうだと変えるからです。変えては駄目なのです。 |
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