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 心の自由

心の中で葛藤が起こり、不埒な感じをださないとやっていられないことがあります。
そうでないと自分がこわれてしまうのです。
ひとつのことをつめて考えていると、そのひとつを押さえているのが大変なせいなのか、そこに焦点をあてているのが嫌になって、逃げるような自分はよく感じます。
佐藤 皆さんは心の進化をはかるという大きな目的があって、瞑想しているのです。
心の自由というのは、自分からも物からも自由でなければならないのです。
だから、自分の心をよくみなさい。不埒な心があるかもしれない。正しい心があるかもしれない。
自分の心のなかに何があるかもわからないで、自由だといっても、それではもっともめるもとになります。
自分がどういう奴なのか、よくよくしらなかったならば駄目なのです。
アストラルの三昧、カラーナの三昧に入ったとき、自分の状態は物も環境もかえられるのです。だんだんと、変えていくことができます。そういう瞑想をしなさい。
ものを並列に考えるのではないのです。正しいもの、正しくないもの、どっちを選ぼうなんていっているのでありません。社会というのはいろんな人間がいるのだから、いろんな人に応えながら、生きていかなければならない自分なのです。
この肉体がある世界は、いがみ合いの世界なのです。だから、そこから心を自由にしなさい。
何から自由になろうとしているのかわからなかったならば、こんな勉強は何にもならない
自分自身からも物からも離れた自由な心をつくらなかったならば、いつまでたっても苦しい。苦しむために生まれてきたようなものです。
二者択一に並列にものを考えて、一生をおわっては駄目です。
その裏はどうなっているのだろうというふうに、垂直にいくのが、心の自由というのです。
だから、自分の心というのは、自分というやつはと箇条書きでもいいから表現しておきなさい。
そこから、垂直に心が自由になる。まだ、自由になっていないから、そんなに悩むのであろう。
そういうふうに、自分の判断の基準がたかくなっていけば、瞑想も価値はあるとおもいます。
現実は情をもって、いろんな人を慰めたり、泣いたり、ともに苦しむけれど、それをみているもうひとつの眼があればいいのです。
この世には、時間があって、時間とともに変化していくのが心なのです。自由な心を作らなければ駄目なのです。
深い三昧に入れば、自分の状態をみている眼がひらいてきます。
自分を導く眼、偽善ではなくて本当に自分を導く眼というものの、しるしというか、なにか基準はありませんか。
佐藤 この世には時間があるから、絶対的な目というものはないのです。
なるほど。

2002年4月6日



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