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| A | 瞑想の時に意識の上澄みのようなところを追いかけていくという話でした。 上澄みというのは、アストラルの上界からカラーナのような意識の層を捕まえていくことかなと思っているのですが、魂の次元の意識と、アストラルの意識、体についている意識というのは、どういうふうに区別なさっているのか、先生のお言葉をうかが いたいのですが。 そうすれば、自分の意識を知る上ですごく参考になるのではないでしょうか。 |
| 佐藤 | 自分というものを日常生活でよくみておく。知っておく。それがなかったならば、自分というものをよく知りなさいといわれても、どういうふうに理解したらいいのかわからない。
自分というものは、痛いものに対してはすごく臆病だとか、好奇心の方が走って、徹夜してしまう自分だとか、そういうものをよく知っておかなくてはならないのです。 上澄みという表現をしたのは、自分が焦ったり、調子にのって徹夜をする、そういうようなものを、「まず、さておいて」という心が自分にあるかないかということです。 たとえば、舞台で人前にでたら、その気にぱっとなれる。それが、にごりのない上澄みということです。 なにかを引きずりながら、いつまでたってもそんな心でいて、いい作品というふうにはいきません。 ぱっと離れられる、捨てられるような心になることです。 |
| A | 佐藤先生はぽんと捨てられるところが偉いところだよと、以前、師匠にいわれたことがあります。 |
| 佐藤 | 未練なく、ぱっと捨てて、別人になる。そのものになる。そういうふうになれる自分がいたならば、そのなれた自分がどこまで澄んでいくのか。
上澄みといっても、それが広がっていくのではなくて、どんどん透明になっていくのです。 垂直に透明になっていく。 そして、それが本当の何もない、気体のような状態になっていきます。そのときは、自分の感覚も自分もおまかせ、全部、天なるものにお任せという心がでればいいのです。 |
| A | わたしは、肉体についている心はこんな感じ、アストラルの心はこんなというふうな感じと、各層によって特徴みたいなものを先生が話をしてくださるかと思ったのです。
そうして、自分のなかでそういうのをすり合わせながら、操作できるかと思っていたのです。 けれど、前提がころりと変わって、その層を捨てると上が見えてくるというお話でした。 日常生活でもごちゃごちゃしたのをぽんと捨てる。うまくいったなと思っても、そこのところもぽんと捨てる。ぽんと捨てることで上澄みの世界にはいっていく。 |
| 佐藤 | ただ、意識がそうなったから、肉体の悪いところが全部治るということではありません。
そういう注意をむけられる、それが知恵なのです。 |
| 2002年4月23日 | |
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