Home
佐藤先生との会話より(4月分)


2002年4月24日 意識の層についての質問 
瞑想の時に意識の上澄みのようなところを追いかけていくという話でした。
上澄みというのは、アストラルの上界からカラーナのような意識の層を捕まえていくことかなと思っているのですが、魂の次元の意識と、アストラルの意識、体についている意識というのは、どういうふうに区別なさっているのか、先生のお言葉をうかが いたいのですが。
そうすれば、自分の意識を知る上ですごく参考になるのではないでしょうか。
佐藤 自分というものを日常生活でよくみておく。知っておく。それがなかったならば、自分というものをよく知りなさいといわれても、どういうふうに理解したらいいのかわからない。
自分というものは、痛いものに対してはすごく臆病だとか、好奇心の方が走って、徹夜してしまう自分だとか、そういうものをよく知っておかなくてはならないのです。
上澄みという表現をしたのは、自分が焦ったり、調子にのって徹夜をする、そういうようなものを、「まず、さておいて」という心が自分にあるかないかということです。
たとえば、舞台で人前にでたら、その気にぱっとなれる。それが、にごりのない上澄みということです。
なにかを引きずりながら、いつまでたってもそんな心でいて、いい作品というふうにはいきません。
ぱっと離れられる、捨てられるような心になることです。
佐藤先生はぽんと捨てられるところが偉いところだよと、以前、師匠にいわれたことがあります。
佐藤 未練なく、ぱっと捨てて、別人になる。そのものになる。そういうふうになれる自分がいたならば、そのなれた自分がどこまで澄んでいくのか。
上澄みといっても、それが広がっていくのではなくて、どんどん透明になっていくのです。
垂直に透明になっていく。
そして、それが本当の何もない、気体のような状態になっていきます。そのときは、自分の感覚も自分もおまかせ、全部、天なるものにお任せという心がでればいいのです。
わたしは、肉体についている心はこんな感じ、アストラルの心はこんなというふうな感じと、各層によって特徴みたいなものを先生が話をしてくださるかと思ったのです。
そうして、自分のなかでそういうのをすり合わせながら、操作できるかと思っていたのです。
けれど、前提がころりと変わって、その層を捨てると上が見えてくるというお話でした。
日常生活でもごちゃごちゃしたのをぽんと捨てる。うまくいったなと思っても、そこのところもぽんと捨てる。ぽんと捨てることで上澄みの世界にはいっていく。
佐藤 ただ、意識がそうなったから、肉体の悪いところが全部治るということではありません。
そういう注意をむけられる、それが知恵なのです。
(02/04/23 火曜クラス)



2002年4月18日 心の自由 
心の中で葛藤が起こり、不埒な感じをださないとやっていられないことがあります。
そうでないと自分がこわれてしまうのです。
ひとつのことをつめて考えていると、そのひとつを押さえているのが大変なせいなのか、そこに焦点をあてているのが嫌になって、逃げるような自分はよく感じます。
佐藤 皆さんは心の進化をはかるという大きな目的があって、瞑想しているのです。
心の自由というのは、自分からも物からも自由でなければならないのです。
だから、自分の心をよくみなさい。不埒な心があるかもしれない。正しい心があるかもしれない。
自分の心のなかに何があるかもわからないで、自由だといっても、それではもっともめるもとになります。
自分がどういう奴なのか、よくよくしらなかったならば駄目なのです。
アストラルの三昧、カラーナの三昧に入ったとき、自分の状態は物も環境もかえられるのです。だんだんと、変えていくことができます。そういう瞑想をしなさい。
ものを並列に考えるのではないのです。正しいもの、正しくないもの、どっちを選ぼうなんていっているのでありません。社会というのはいろんな人間がいるのだから、いろんな人に応えながら、生きていかなければならない自分なのです。
この肉体がある世界は、いがみ合いの世界なのです。だから、そこから心を自由にしなさい。
何から自由になろうとしているのかわからなかったならば、こんな勉強は何にもならない
自分自身からも物からも離れた自由な心をつくらなかったならば、いつまでたっても苦しい。苦しむために生まれてきたようなものです。
二者択一に並列にものを考えて、一生をおわっては駄目です。
その裏はどうなっているのだろうというふうに、垂直にいくのが、心の自由というのです。
だから、自分の心というのは、自分というやつはと箇条書きでもいいから表現しておきなさい。
そこから、垂直に心が自由になる。まだ、自由になっていないから、そんなに悩むのであろう。
そういうふうに、自分の判断の基準がたかくなっていけば、瞑想も価値はあるとおもいます。
現実は情をもって、いろんな人を慰めたり、泣いたり、ともに苦しむけれど、それをみているもうひとつの眼があればいいのです。
この世には、時間があって、時間とともに変化していくのが心なのです。自由な心を作らなければ駄目なのです。
深い三昧に入れば、自分の状態をみている眼がひらいてきます。
自分を導く眼、偽善ではなくて本当に自分を導く眼というものの、しるしというか、なにか基準はありませんか。
佐藤 この世には時間があるから、絶対的な目というものはないのです。
なるほど。
(02/04/06 土曜クラス)



瞑想対話集目次 瞑想対話集索引 瞑想対話集最新 瞑想教室ルポ
瞑想教室のご案内 瞑想教室写真 瞑想の本
3月分 6月分 5月分 4月分 3月分 2月分 1月分 12月分 11月分 10月分 8,9月分

湧気行 - 瞑想・滝行の会